忙中閑あり







十一月三日  文化の日に思う

 文化の日。特異日にふさわしく晴天に恵まれることができた。荒川区政にも必ず青空が広がると確信する。

 「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する。」
これはあまりにも有名な英国ロード・アクトンの言葉だ。歴史を巡れば、この名言が真実を言い表していることが容易に証明できる。今回の荒川区の汚職連続事件もまた、この一例であると言える。
 前区長は絶対的な権力者を目指していた。就任三年にしてその領域に達していたという人もいる。絶対的権力者の欠点は一切の批判を嫌い排除する事だ。自分のしていることは絶対に正しくこれを批判する者は不正であり変り者である。従って、そんな者は排除しろ。という論理だ。こうして自分の周囲にはいわゆる『茶坊主』集団が生まれ、『よいしょ』の連続の中で権力者区長は自分の罪の意識を喪失していったのである。
 「権力は蜜の味」といわれる。今回の事件に関し司法関係から区長と助役の「職務権限」に対する認識の甘さが指摘されている。大きな権限には大きな責任と大きな義務が伴うことを権力者は常に心しておかなくてはならない。
・自分の職務に伴う権限がいかに大きく、それには不正や癒着や恣意的な判断・行動は厳に慎むこと。
・自分に利益を提供してくれる一部の人々のために働いてはいけない事。
・不正な金品を受け取ってはならない事。
 こうした自己規制の心が備わっていなければ、権力の座についてはならないといえる。と同時に個人としての人間は弱い存在であるから、いつ「誘惑」に誘われてしまうか分からない。そこで、それを防止するシステムが備えられ、健全な批判の眼に常に監視される事が必要になってくる。
 今回の荒川区の出直しの後に、一番先に最大の力を入れなくてはならない作業はこのシステムを区役所の内外に備えることだろう。そのところに人を得て、その仕組みが生まれれば、荒川区は、本日の青空のように澄み切った、清潔な自治体に生まれ変れると確信する。

十月二十九日 新潟中越地震に際して 

 私は一年近く防衛政務次官を務めたことがある。ちょうど北海道の有珠山噴火の頃だった。
 職務で練馬の第一師団に出かけていて、当時の山口師団長(陸将)と打合せ中に室内のモニターが有珠山の噴火を伝えた。
 山口陸将は雲仙普賢岳噴火の際に指揮をとり「日本のシュワルツコフ」と呼ばれた方であった。山口陸将との会話の中で今でも記憶に残っているのは、「情報伝達ロスの原理」と後で私が名づけた、体験に基づく貴重な話であった。
 それは、現場で強烈な体験をしてそれに伝えようと情報を発信すると、次の段階の処ではその情報は熱を失い、その次では更に熱は低下し、最後の段階、つまり決定権を有したり、全体を判断する権限を有する人々の処では、現場とはほど遠い「中身のない、生々しさのない、ただの状況報告」に成り下がってしまうということだった。現場が100℃なら、伝達段階を進むにしたがって70℃、50℃、30℃という具合にその熱は下がっていくのだという。
 今回の台風、大地震に関する官庁内の報告(情報)がこうならないことを切に願っている。
 その点で、テレビ放送の効力は偉大である。誰でも一瞬にして現場の様子を知り、復旧や救援に心を動かされることになる。参加の必要性を決意させる。
 阪神大地震の際に、私は何回も現場に行って救援を手伝ったが、それを言葉で伝えようとしてもなかなか正確に伝わらず苛立ちを覚えたことがあった。ところが、テレビで惨状が放映されると、多くの人々の救援の申し出が起った。飛散するガラスで怪我をしないよう、着の身着のままで避難された方々に友人とともに運動靴等を500足、1000足とお送りしたこともあったが、これもテレビの報道のおかげである。
 寒さとの戦いの新潟をはじめとする大地震や台風の被災地での自衛隊、警察、消防、ボランティア、国及び現地公務員の皆様の活躍は心強い。ご苦労様です。日に日に各地の義援の志も増している。

 新潟の皆様、豊岡その他被災地の皆様にはどうか心を強くもって頑張っていただきたい。必ず安らかな日は復活すると確信します。

 元気を出して下さい。

十月十九日 老々介護を思う

 今年の夏は異常に暑かった。これでは御高齢で病気と闘っている方々はさぞかし大変だろうと安じていた。
 私の家でも妻の母が旧盆のころ急に体調を崩して入院してしまった。入院生活はまだ続いていて、妻は一日三回食事の世話をするために病院に通っている。そんな中、同じ病院に入院加療中の、私が大変お世話になった方々が昨日、本日と相次いで不帰の客となられた。各々難しい病気と闘っていた方々だ。ただ、その方々は家族愛に恵まれていて、遠くに住んでいる子供達や近くにお住まいの家族による十分な介護を受けておられた。
 家族の誠心誠意の看病を得られる人は幸福な方々だ。世間にはそんな家族ばかりではないという話も耳に入る。家族が多く、交代で介護や看病ができる家庭ばかりではないことも事実である。特に老人世帯の老々介護は非常にご苦労が多いといえる。年老いた夫を介護する老齢の妻、又はその反対もある。こうしたご夫婦間の介護は長期化すればする程筆舌に尽くしがたい苦労になることを私も間近で見てきた。
 そんな介護のパターンに近所の人たちの支援をもっと沢山得られる『本当の下町の人情』に基づく仕組みが確立できないものだろうか。
 これから、それに挑戦してみたいと考えている。

十月十一日 力を合わせて 

 昨日(十日)久し振りに本格的な街頭演説を行った。町屋、南千住で計十三回行ったが、街の反応は上々だった。
 街頭で「荒川区政の刷新」をテーマに訴えた。今回の前区長と前助役の汚職事件によって地に落ちた荒川区の名誉と信頼を取り戻すために「入札制度の大改革」を実行し、行政トップの倫理の確立をいかに確保するかが今後の急務であることを訴えた。
 前日が超大型台風の後の土曜日だったため、外出を控えた人々があちこちで窓を開けて私の話に耳を傾けて下さった。多くの方の拍手は私の胸を熱くし力づけてくれた。
 考えてみれば、昭和五十二年以来、多くの方々にご支持ご支援を戴いて来た。こんな私に対する期待に力一杯応えていく責任が私にはある。
 街頭に出ると、荒川区民が各所で一生懸命に働いていることが改めて手に取るように理解できた。
 たとえば、南千住の汐入リバーパークのニュータウンでは、フリーマーケットで街の魅力を訴え、カメラマンがそれをいろいろな角度から撮影していたし、少年野球の指導者が高名なプロ野球選手を招いて子供たち向けの「野球教室」を開催していた。
 みんな力一杯、各々の得意な分野で頑張っている。これらの力が重なり合えば、荒川区は必ず元気になれる。それを確信した。
 
 みんなで力を合わせて、地に落ちた荒川区の名誉と信頼を取り戻したい。 

十月八日  旧友からの電話  

 私の学生時代からの友人で山口県のある市で市長を務めるM君から久し振りに電話があった。最近の私の動きが地方に在住する彼の耳にも入ったらしい。
「おい、大変なことだな。近いうちに会いに行くよ。」彼の言葉にはたっぷり友情が詰まっていた。
 私はすぐ、昔、それも遠い昔、受験生だった頃に覚えた諺、
A friend in need is a friend indeed.(まさかの時の友こそ真の友)」を思い出した。
 彼の言によれば、地方自治体の首長の仕事はいかにも大変なことだそうだ。想像はしていたが、彼の実体験はそれ以上であった。特にカバーする範囲がとても広く、細部にわたっている。私は彼に近々会って「自治体首長心得の条」を聴かせてもらうことになった。
 私は今回の「決意」の考え方、大げさに言えば哲学を彼に話した。
  それは、真の意味で「主権者と共に生きていく」ことに尽きるのだが、行政の全ての出発点とゴールを、主権者の尊厳の確立、公正と公平の徹底に置くと話した。
 それを聞いた彼の「お前ならやれるよ」との一言が背中を強く押してくれた。幾つになっても友人は有り難いものだ。

九月二十九日 荒川区民の一人として

 私は朝散歩するが、このごろは所々で歩みを止められる。ほとんど顔見知りの方々だが、
「西川さん、今度の前区長の汚職はどんなことなの?」
と尋ねられることが多いからだ。
 私は知っている限りの話をするのだが、区民の関心は何故それを周囲の関係者が止められなかったかという点に集中している。
 実は、十九日の前区長の逮捕以来、かなりの大勢の区民から、中には私が直接存じ上げない方からも私に「何とかしろ」という声が届けられている状況だ。
 今私は、荒川区民の一人としてその声を無視することができないという心境になっている。 

九月二十七日 荒川区長の逮捕について

 今回の荒川区の区長と助役の連続逮捕は誠に不名誉この上ない事件である。
「地方自治は民主主義の学校である」と言ったのはジェームス・ブライスだが、より身近な自治体のトップ二人が、それも別々の汚職でこの始末というのは約50年ぶりの出来事であるという。23区長の贈収賄事件による逮捕は49年ぶり、区長と助役の連続別件逮捕はおそらく未曾有のことだろう。
 民主主義とは主権者を第一に考える制度である。主権者を無視し主権者をおそれない今回の汚職事件は地方自治体の自殺行為である。それでは何故こうした事件が発生したのであろうか。
 それは第一に、本人たちの自覚の欠如と、職務権限を有する行政のトップとしての、かつ公僕の代表としての倫理の欠如であり、第二に、組織としての荒川区行政の汚職予防機能の欠如である。
 区民の血と汗の結晶である税金の結集である公金を、迂回して懐に入れる汚い行為をして人として恥じない態度は断じて許せるものではない。
 この不名誉からの建て直しは全荒川区民の監視と参加の下に実施されてこそ意義がある。それでこそ「地方自治は民主主義の学校である」と言えよう。



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